性格というのは、ある認知する対象が、認知される対象となる人が、「こういう人である」という
概念であると言える。
もちろん、認知する対象は、「私」であることもある。
だが、この認知する対象は、「私」という概念を作り、それを見ているにすぎない。
他人の場合でも、「あなた」という概念を脳内で作り、それを見ているにすぎない。
では、何が「私」、あるいは「あなた」を見ているのか、についてはまた後述するとして、
今回は「悟った人」の性格について考えてみたい。
そもそも、「悟った人」がいるか、いないか、又は「悟る」とは何か、はまた大きな課題でもあるが、
ここでは「忘我をコントロールする人」、「私の中心に気づいている人」について考える。
忘我であるということは、自我を持っている事がある、ということだ。
自我がなければ、それを忘れることなどはできないという当たり前の論理である。
自我は全ての悩み、苦しみを生みだすため、我々は自我を忘れようと必死になるわけである。
夢中になれることをし、その中で忘我になる。
瞑想をし、その中で忘我になる。
この、忘我の状態では、「私」は無い。
「私」は無いのであるから、私から見た「私の性格」は存在しえない。
他人から見た「私」は、他人の彼の中にある。
「ワタシ」の中心が、今、この刹那気づいている状態であるなら、
性格と呼ばれるものは基本的に全て過去の記憶で構成されていると言える。
「この人は、昔これを行っていた。今もこれをやっているから、おそらくこれが好きなんだろう」
といった具合である。
全ては、過去の記憶との比較にすぎない。
そう言ってしまうと、そもそも性格などただの妄想である、と言えるし、事実そうなのだが、
それでは何も語ることないやん!で終わってしまうので続けよう。
つまり、性格というのは、便宜上過去の記憶と比較した全体像を見たベクトルであると言えるが、
「忘我をコントロールする人」には性格は無いのか、というとそうでもなく、
実際に言葉を交わしたり、電車に乗るには自我は必要なのである。
つまり、「悟った人」とされる人が、どんなに「滑稽」で、「醜く」「蔑むべき」性格に見える人
であっても、「悟った人」かもしれない、ということだ。
何故なら、「忘我である状態」「私の中心に気づいている状態」は外からは何もわからないからである。
その「悟った人」にとってみれば、話をしている時、電車に乗ろうとしている時、は
過去の記憶に基づき、自然に行動しているだけであって、「私の中心に気づいている状態」や、
「忘我である状態」とは完全に違うものである。
「自我」を、ただのツールとして使用しているだけなのだ。
もしかしたら、「悟った人」と呼ばれる人は意外とそこらにいるのかもしれない。
しかし、「悟った人」は、たぶんこう言うだろう
「私は知らない」と。
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