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生きる意味

たまに、生きる意味、生きる価値とは何ですか、と聞かれる事がある。
また、よくある悩みにもなっているようだ。
しかし、これには答えは無い。いや、答えはあると言えばあるし、無いといえば無い。
何故ならば、「意味」「価値」という概念自体が人が勝手に作ったものだからだ

生きる意味は何でしょう?といわれても
「意味」という概念自体が実際に存在しないものである。それは単なる勝手な作り物であるから、
その存在しないものの概念を使うという最初から、
根本的にその問い自体があっても仕方が無い、必要の無いものなのだ。
つまり、この問いは「意味」という概念自体が実際に存在するという前提なわけである。
しかし、何度も述べるが「意味」「価値」というのは単なる概念であり、実在するわけではない。
人々の頭の中にしかなく、絶対的に存在するものでは無いのである。
だからして、その前提が覆される以上その問い自体がそれこそ、「意味」「価値」をなさないのである。
簡単に言うと「考えてもしょうがない」である。
なぜならその思考は単なる脳の雑念だからだ。
雑念を雑念としっかり認識すれば、しっかりそれを見て、
消してしまえば良い。


では、私たちは何を持って、生きていけばいいのでしょうか?
よくそう問われる。
そしてはっきり答えをこう言います。
生きる必要はありません。死ぬ必要もありません。
そして、何も持つ必要もありません。
持ちたければ持てば良いし、生きたければ生きればいいし、
死にたければ死ねばいいのです。
誤解を受けそうですが、私は自殺をを奨励しているわけではない。
そもそも生死も単なる概念でしかない。特に死は誰もそれを本人が
体験する事はなく、死ぬまで延々概念でしかない。
「私は死ぬ事は無い」とは論理的に正しい。

ですから、あなたは好きなように生き、好きなように死ねば良い、と私は言う。
これも誤解を受けそうなので言っておくが、人殺しや犯罪をしてでも
好きなように生きれば良い、と奨励しているわけではない。
だからといってそれが悪いと言っているわけでもない。
この社会において、皆が妄想を見て生きているようにみえるのは事実っぽく
我々の眼には映る。ならばその妄想社会のルールの中で生きていくためには
どうすればより効率的に、生きていけるかを考えれば良い。

「私たちは何故生きるのか」
これは永遠の問いであり、そして瞬間の問いである。
答えは既に出ているし、答えは無い。
自分で探しても良いし、探さなくても良い。
好きにしたら良い

テーマ : スピリチュアル - ジャンル : 心と身体

人の性格

性格というのは、ある認知する対象が、認知される対象となる人が、「こういう人である」という
概念であると言える。
もちろん、認知する対象は、「私」であることもある。
だが、この認知する対象は、「私」という概念を作り、それを見ているにすぎない。
他人の場合でも、「あなた」という概念を脳内で作り、それを見ているにすぎない。
では、何が「私」、あるいは「あなた」を見ているのか、についてはまた後述するとして、
今回は「悟った人」の性格について考えてみたい。

そもそも、「悟った人」がいるか、いないか、又は「悟る」とは何か、はまた大きな課題でもあるが、
ここでは「忘我をコントロールする人」、「私の中心に気づいている人」について考える。

忘我であるということは、自我を持っている事がある、ということだ。
自我がなければ、それを忘れることなどはできないという当たり前の論理である。

自我は全ての悩み、苦しみを生みだすため、我々は自我を忘れようと必死になるわけである。
夢中になれることをし、その中で忘我になる。
瞑想をし、その中で忘我になる。
この、忘我の状態では、「私」は無い。
「私」は無いのであるから、私から見た「私の性格」は存在しえない。
他人から見た「私」は、他人の彼の中にある。

「ワタシ」の中心が、今、この刹那気づいている状態であるなら、
性格と呼ばれるものは基本的に全て過去の記憶で構成されていると言える。
「この人は、昔これを行っていた。今もこれをやっているから、おそらくこれが好きなんだろう」
といった具合である。
全ては、過去の記憶との比較にすぎない。
そう言ってしまうと、そもそも性格などただの妄想である、と言えるし、事実そうなのだが、
それでは何も語ることないやん!で終わってしまうので続けよう。
つまり、性格というのは、便宜上過去の記憶と比較した全体像を見たベクトルであると言えるが、
「忘我をコントロールする人」には性格は無いのか、というとそうでもなく、
実際に言葉を交わしたり、電車に乗るには自我は必要なのである。
つまり、「悟った人」とされる人が、どんなに「滑稽」で、「醜く」「蔑むべき」性格に見える人
であっても、「悟った人」かもしれない、ということだ。
何故なら、「忘我である状態」「私の中心に気づいている状態」は外からは何もわからないからである。
その「悟った人」にとってみれば、話をしている時、電車に乗ろうとしている時、は
過去の記憶に基づき、自然に行動しているだけであって、「私の中心に気づいている状態」や、
「忘我である状態」とは完全に違うものである。
「自我」を、ただのツールとして使用しているだけなのだ。

もしかしたら、「悟った人」と呼ばれる人は意外とそこらにいるのかもしれない。
しかし、「悟った人」は、たぶんこう言うだろう
「私は知らない」と。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体

はじめてみる

仕事を辞め、1人で仕事をして行くにあたって、
毎日の生活の中での気づき、または読んだ本等を書いていこうと思う。

自我を持ち、考えを持ち、思想を持つ事自体に問題があるというが、
自我がなければ話すことも、どこかに行くこともできない。
ずっとこのことを考えていたが、今のところ、ひとつの暫定としての考えはこうだ。

自我を持つ事自体は生活に必要だ。だが、それは単なるツールにすぎない。
その自我により、他人にとっては、又は私にとっては、ある性格というものに見えるかもしれない。
当然それはお互いの妄想であり、全くの幻想だ。
それを認識したうえで、生活を行う上で自我が必要でない時には、
自己の中心というものにしっかりフォーカスしておく。
これを瞑想といったり言わなかったりするのかもしれない。

自己の中心とは、ただすべてに気づいているだけの存在である。
過去の知識は単なる知識にすぎない。それをもって形作られる
私という自我の性格と呼ばれるものは私の中心ではない。

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